海の日に想う見附島のこと
今日は海の日だ。
私にとって最も親しい海は見附島のある見附海岸だ。
そこは石川県の能登にある海で、シンボルの見附島はその姿から“軍艦島”とも呼ばれている。
私は東京生まれ東京育ちなので、海の存在はそう近くはない。
東京の人達にとって海といえば東京湾か、神奈川県の湘南海岸だろうか。
どうして遠く離れた石川県のしかも先の方にある海が私にとって親しいのかというと、なんてことはない。そこは父の生まれ故郷だからだ。
長距離大移動
私が子どもの頃は毎年夏休みになると、必ず父の実家に行った。
姉が中学生になった頃までその恒例行事は続いていたと思う。
父は仕事で忙しかったため、母と姉と弟と私の4人で行く事が多かった。
父が10時間近くかけて車で私達を送り、翌日帰ることもあったし、母と私達だけで新幹線と電車をたくさん乗り継いで行ったこともあった。
今考えると、母は本当に大変だったと思う。
能登に行く道は今でも簡単ではないが、当時はもっと大変だった。
それを母は3人の幼い子どもを連れて行くわけだ。
そして母は義実家に着くや否や家事をこなし、夫の両親や親戚の世話をし続けた。
しかも自分の子ども達の世話もしなければならない。
父方の祖母はとても優しく愛情深い人だった。
一年に一回しか訪ねてこない私達にもとても優しかった。
母からも彼女について愚痴一つ聞いたことがない。
それでも孤軍奮闘している感は否めなかっただろう。
それでだろうか。母の母である私の祖母も一緒に行ったこともある。
幼かった私は皆んなが揃っていることがただただ嬉しかった。
大自然と触れ合った夏休みの思い出
父の実家は石川県の珠洲市にあり、しかもそこは本当に先の方だった。
だから冒頭に話した見附島海岸も、歩いて5分くらいの距離にあった。
田んぼも延々と広がっていて、商店は近所に一軒くらいしかなかった。
そこは東京とは何もかもが違った。
空気が違う。
香りがちがう。
田んぼを歩いていると、小さくて可愛いカエルがピョコっと飛び出てくることがあった。
虫の声やカエルの声が賑やかだった。
田んぼは正しくまっすぐに形成されていて、どこまでも歩いて行かれそうだった。
私は行かれる所まで行こうと決めて、結局途中で怖くなって引き返すということを繰り返していた。
祖母は畑をやっていたから、私達をそこに連れて行ってくれたこともあった。
ネコと呼ばれる三輪の運搬車に収穫した野菜とともに私達を乗せて運んでくれることもあった。
父の実家の敷地内には葡萄棚があり、脚立にのって葡萄をもぎってそのまま食べさせてくれることもあった。
見附島と海
海には毎日行きたかった。
東京にいてはそう簡単に海で遊ぶことはできない。
私達姉弟にとっては海に行くことは素晴らしいイベントだった。
見附島というこの特徴的な島のある海は能登の観光スポットでもあるらしい。
潮が引くと道ができて島まで渡ることもできるのだとか。
途中まで渡った記憶はあるが、行き着いた記憶は無い。
従姉妹や父方の祖母というイレギュラーなメンバーで出かけることも、私にとって非日常である海で遊ぶことも楽しかった。
夏のお祭り
能登での夏休みの思い出は、花火と御陣乗太鼓とキリコ祭りだ。
花火は皆んなと浜辺で仰向けに横たわって見た。
まるで花火が降ってくるかのようなすごい迫力だった。
御陣乗太鼓というのは、面をつけた人達が独自のリズムで和太鼓を叩く神事だ。
私はその面が怖くて仕方なかった。
キリコ祭りではキリコと呼ばれる風流灯籠の光が暗闇に浮か様子が美しかった。
光の灯る夜と朝ではキリコの見え方が違って興味深い。
そしてお祭り前後の独特の空気感も新鮮だった。
復興への願い
残念ながら、残念ながら父の実家は全壊し、見附島も崩れてしまった。
今年の1月1日にあった大地震のせいだ。
私達は父の実家を片付けに行きたいが、いまだに宿泊状況が整っていないため叶っていない。
私達にとっては子どもの頃のノスタルジーであるが、現地で生活している方々にとってはそんな場合ではない。
大変な被害であり、心配な状況が続いている。
もう半年以上経つというのに復興の目処が立っていないらしい。
見附島があの頃の姿を取り戻すことは難しいかもしれない。
しかし現地で生活している方々が一日も早く安らかに過ごせる日が来るよう祈るばかりである。
ピアノのレッスンに興味がありますか?
詳しくはこちらのページをご覧ください:私のピアノレッスン.
お問い合わせ
私のサービスにご興味をお持ちいただきありがとうございます。以下のフォームに記入してください。あなたの目標の達成をどのように支援できるかについて、できるだけ早くご連絡させていただきます。他にご質問やコメントがございましたら、お気軽にメッセージにご記入ください。一緒に働けることを楽しみにしています!